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コラム

更新2018.05.09

人生を変えた1台。少年時代から待ち望んでいた「スバル360」オーナーへの道

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鈴木 修一郎

筆者の記事で時折出てくる「レストア中のスバル360」の話ですが、ふとCLカーズ上では自分のスバル360について詳しく書いてなかった事に気づいたので、たまにはスバル360の事も書いてみようかと思います。

筆者が所有しているのは昭和44年型スバル360スーパーDX。1999年の購入時は青に再塗装されていましたが、2002年に純正色サテンブロンズに再塗装。2015年あたりから再び塗装面のクラックやパテの割れが目立ち始め、2016年末から一念発起でDIYレストアを始め、2018年5月現在はプラサフ処理の状態となっています。21世紀を前にして、はじめてのマイカーがスバル360というのもずいぶんズレた話ですが、それでも所有からもうすぐ20年、ちょうど節目の記念にと思い自分でレストア作業をしています。

人生を変えた1台



▲この当時はまだデジカメを持っておらず、紙焼きの写真は2000年の東海豪雨の水害に被災したため、納車直後の写真はあまり残っていません

この10年くらいはセリカか亡父のクルーがメインユースになってしまい、スバル360に乗る機会は減ってしまいましたが、筆者にとってスバル360は人生を変えた1台といってもよいでしょう。

以前、別の記事で幼少期はVWが好きだったと書いたことがあります。就学年齢になるまではむしろVWのカブリオレに憧れ、玩具店でVWのミニカーを見つければ親にねだったものです。ところがその一方で不思議と気になるクルマがありました。それがスバル360です。スバル360が過去の存在になりつつあった1976年生まれの筆者が、どうやってスバル360を知ったのかは今となっては知るすべもありませんが、「福音館あかちゃんの絵本・じどうしゃ(寺島龍一)」(その界隈ではかなり有名な絵本ではないでしょうか)を見て「スバル360」と言った記憶がうっすらとあるので3歳くらいのころには「スバル360」を知っていたようです。

最初は「VWとそっくりなヘンテコリンな国産の軽自動車」という程度の認識だったのですが、就学児になり、自動車関連の図鑑や児童書が読めるようになるとスバル360が日本の自動車の歴史に名を遺すクルマで、当時ですでに有数の自動車生産国となった日本で、はじめてだれでも買える大衆車として登場したのがスバル360と知り、「小さいながらもよく走った」という当時を知る人の話を聞くうちに、次第に興味はスバル360に移ってゆきます。

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少年時代の心の支えとなったスバル360


時はバブル前夜、残存数は確実に減りつつも、まだ稀に街中で見かける機会もありました。近所にあった名古屋スバルの中古車センターの一角に、スバル360が入荷するたびに見に行き、自宅周辺でスバル360がある場所は、実動車・不動車問わず、すべて記憶していました。

もちろん、ご多分にもれずそんな変わり者は学校のクラスでも浮いた存在となり、引っ込み思案もあっていじめのターゲットになるのがお約束です。少年時代、少女時代いじめを耐え抜いた経験のある人にとっては何かしら心の支えになった物があるかと思います。映画だったり、マンガだったり、音楽やミュージシャンだったり、あるいはそれを自分で創作して発表したり、楽器を手にしてバンドを組んだり、それで鬱屈した学校生活を乗り切った人も多い事かと思います。その心の支えとなったのが筆者にとってはスバル360だったのです。時折中高生が学校生活での理不尽を苦に自殺するというニュースを耳にしますが、筆者にとってはスバル360に乗らないことには死ぬわけにはいかない、という一心で思いとどまったといってもいいかもしれません。

そんな折、1990年の第1回トヨタ博物館クラシックカーフェスティバルに行ったときのことです。中央ステージでの車両紹介で、司会の方が見たいクルマのリクエストを募った時に思い切ってスバル360が見たいとリクエストした時の事でした。会場がざわついたのを記憶しています。

今でこそ、カーレースゲームやマンガ等で若い人が昔のクルマに興味をもつことも珍しくありません。しかし、当時は「R32GT-R」がニュルブルクリンクでポルシェや、フェラーリを凌駕するタイムを叩き出し、レクサスLS400(セルシオ)が品質と静寂性でメルセデスを脅かした国産車の絶頂期。その数年前には映画「私をスキーに連れてって」でセリカGT-FOURがスクリーンで活躍。若者にとって魅力的なニューモデルで湧き上がってる時代だったので、往年の国産車に若者が興味を持つということは珍しかったのです。

スバル360のオーナーはもちろんダットサンやトヨペットのオーナーさえも、まさか十代前半の少年が「免許を取ったらスバル360に乗りたい」と口にするとは思っていなかったようで、「これで自分たちの愛車の将来は安泰だ」という驚愕と安堵が入り混じった表情を浮かべていたのを覚えています。後日、そのスバル360のオーナーからもらった「てんとう虫が走った日 スバル360開発物語(桂木洋二著)」は何度も読み返し、人生のバイブル同然の本ともなり、スバル360への思いはますます強くなっていきました。


▲何度も読み返して、巻末の仕様変更の年譜はほとんど丸暗記していたので、今でも外装を見れば大半の年式は判別できます

待ち望んだスバル360オーナーへの道


そして18歳になり免許を取得。大学に進学しスバル360でキャンパスライフを満喫…と言いたいところですが、筆者が免許を取るころには、もはやスバル360は30年物のヴィンテージ車、一般の市場には出てくることもなく、まだ当時はヤフーオークションどころかインターネットもようやくダイヤルアップで民間に普及するかどうかの時代でした。一介の大学生が、人づてにクラシックカーの個人売買にアクセスするというのは容易な話ではなく、一度は不動車のスバル360の紹介を受けてそれを自力でレストアする事も考えたのですが、当時の自分ではどうすることもできず…。大学4年の冬にイベントで知り合った方(現在スバル360専門店を営みいずれCLカーズ上でも紹介したいと思います)から、「鈴木君、最終型のスーパーDXが欲しいって言ってたよね?手放したいって人がいるよ?」という連絡があり、ようやく、待ち望んだスバル360オーナーへの道が切り開けました。

ところが、そううまくいくものでもなく、数か月後ようやく現車確認が叶ったものの、長らく不動の状態で車庫保管されていたためブレーキマスターは抜けて、ドラムは固着し、エンジンは降ろしてOH途中のままバラバラ。とてもすぐに動かせるものではなかったのです。せめて大学の卒業旅行くらいはスバル360でという淡い期待も叶うことはありませんでした。もっとも、スバル360に乗れたところで知識もアテもない状態で4年間無事スバル360で大学に通えたかも怪しい所ですが…

その後、紹介してくれた方がスバル360の専門店を開業することになり、OH途中のバラバラになったエンジンは一旦先送りにして、ブレーキの整備。同年式の部品取り車のブロー寸前のエンジンを載せて、とりあえず動ける状態になるようにお願いして、1999年の6月ようやく念願のスバル360とのカーライフが始まりました。スバル360を探し始めてすでに4年が経っていました。近所を一回りしただけでも、15年越しの思いが成就したと思うと感慨深いものでしたが、最近はツイッターを見ていると免許を取ってすぐの若い人が免許取得とほぼ同時に、20~30年以上前のクルマを見つけ出して初心者マークを貼っている画像をアップしているのを見ると、クラシックカーの売買情報にアクセスする唯一の方法が人づてしかなかった頃を思えば隔世の感を覚えます。

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ここからはじまる「本当の試練」とは


しかし、これこそが筆者にとって本当の試練の始まりでもありました。再塗装したといっても随分中途半端で、再塗装は1度だけのようなのですが、ろくに足付けもせずオリジナルのペイントからそのまま青を塗っただけで、クラックの入ったところを突っつくと青い塗料がはがれて元色のゴールドの塗装面が剥き出て、左側は鈑金修理をしたのかよく見るとヤスリの跡が見えるという有様でした。(左ドアは今回のレストアでとんでもない状態だった事が発覚します)納車時はちょうど気温が上がり始めたころ、パーコレーションが起きたかと思えばチョークの使い方もわからず、エンジンの始動すらままならないところからのスタートでした。





もしかしたら、古くからのインターネットユーザーのスバル360愛好家の方の中にはご記憶のある方もいるかもしれません。かつて名鉄犬山線の犬山橋の名物だった列車と自動車の並走橋の廃止前に犬山橋で撮った写真で一時期、とある有名スバル360Webサイトのトップ画像に使われていたことがあります。写真で見るとわりと綺麗に見えるのですが、間近ではとても見れたものではなく、「多少ボロくても濃色車は磨きこめば写真写りでは映える」というのを覚えたのもこの頃でした。

ところが、乗り出してしばらくするとさまざまな不具合が出るのがこういうクルマの常です。まずは見様見真似でデスビのギャップ調整とタイミング調整を覚える所から始まり、ダイナモのベルトのテンション調整、ミッションオイルの交換等、自分でできる所からDIY整備を始めるのですが、困ったことに自分が整備を覚える以上のペースで塗装のヤレが進行してしまいます。



購入後1年半ほど経ったあたりから急激に塗膜の艶が引け、有名なアクリル製リアウィンドウはまるでスモークガラスのように真っ黒に変色します。そして購入して2年の夏ついにリア回りの塗装がパテごと剥がれ落ち、リアウィンドーは熱で変形したかと思えば、脆くなっていたのかちょっと手で押しただけで割れるという事態に…


▲よく見るとフェンダーアーチ後方にもうっすらとクラックが浮き上がっています



この時、サンダーをあてて飛び散ったパテと塗料の粉まみれになってしまったお隣さんのクルマは事情を話して、洗車だけでなくコンパウンドでポリッシングしたのちソナックスのワックスで仕上げて窓ガラスも撥水コーティングしておきました。







ボディレストアを決意


何しろ、突然艶がなくなってそれまで茶色ががっていた程度のリアウィンドーが真っ黒になるまで数か月、よもやそんなことになるとはつゆ知らず2001年の日本海CCRにエントリーしてしまったのですが、日本海CCRエントリーの2週間ほど前になって突然リアウィンドーが変形して割れてしまいリア回りの塗装がパテごと剥がれ落ちるという事態に遭遇し初参加の日本海CCRではパテごとはがれた塗装をどうにかパテと青いスプレー塗料で限られた時間内でごまかした見すぼらしい姿をさらす羽目になってしまいました。


▲再塗装に備えて外装を外した状態、フロントフード内装の一部に見えるゴールドが新車当時の塗装色

しかし、これが最初のボディレストアを決意する決定打となりました。購入当時は、せっかく全塗装するならスーパーDXのオプションカラーだったサテンブロンズの塗装車なので、サテンブロンズの純正色で仕上げたいけど、その前にDIY塗装で一度子供のころ好きだったTVアニメ「よろしくメカドック」のメカドックレプリカにして楽しんでからサテンブロンズに…と思っていたのですが、もはやそんな寄り道をする余裕もなく一度内装、外装を外して中途半端に上塗りした青い塗装を剥がして純正色のサテンブロンズで仕上げる事になります。


▲一度、この仕様で仕上げてみたかったのですが。今となってはそんな度胸はありません(苦笑)

しかし、純正色でボディレストアをしたからと言ってそれで終わるわけがないのがこの手の古いクルマの常です。筆者のスバル360についてはまた折を見てお話しようかと思います。

[ライター・カメラ/鈴木修一郎]

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