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コラム

更新2020.08.22

生誕50年のランボルギーニ ミウラの背景を交え、違いが多いイオタを振り返る

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中野 ヒロシ

2016年は、1966年に誕生したランボルギーニ ミウラが、生誕50年という節目にあたる。そして、約半世紀という時が流れても多くの人を惹きつけるこのクルマには、多くの謎に包まれた「イオタ」という特別な存在もある。この記事は、ミウラの生まれた背景を交えながらイオタの考察をしていきたいと思う。



まずは、このミウラとイオタを語る上で欠かせないこの写真の4人を紹介する。左からボブ・ウォレス、パオロ・スタンツァーニ、フェルッチオ・ランボルギーニ、ジャンパオロ・ダラーラ。ボブ・ウォレスは、ランボルギーニのチーフテストドライバーであり、イオタを作った張本人である。パオロ・スタンツァーニは、ミウラを生み出した重要なエンジニアであり、主にエンジンを担当していた。フェルッチオ・ランボルギーニは、言わずと知れたランボルギーニ社の創設者である。そしてジャンパオロ・ダラーラは、ミウラの開発を主導し、独特なパッケージングとフレームを構築したエンジニアだ。

1965年のトリノショーにおいて、V型12気筒エンジンを横置きにしたTP400がお披露目されるのだが、この時点ではフェルッチオ・ランボルギーニは量産を考えておらず、他の量産車の販売を促進するため、20台程度の限定車を想定したようだ。ミッドシップのクルマ自体が珍しかった当時、このTP400への注目はかなり高かった。そして今からちょうど半世紀前に行われたジュネーブショーで、ミウラ P400がお披露目される。このときの反響は凄まじく、20台程度の限定生産という予定を取りやめ、ランボルギーニは量産化の準備に取り掛かることになる。

V型12気筒エンジンをミッドシップに横置きにするというレイアウトは、一部のレーシングカーを除いて過去に例を見ない独創的なアイデアだ。RA271(1964年)およびRA272(1965年)のホンダF1マシンが同じようにV型12気筒エンジンをミッドシップに横置きしているのだが、これを生み出したジャンパオロ・ダラーラは、フォード GT40のツインチューブモノコックが、イギリスのミニに大きく影響されたものだと語っている。実際にミウラは、当時少量生産に最も適していた鋼管スペースフレームではなく、鋼板を用いたボックスフレームとなっている。さらに、ダラーラはこのTP400が生まれる前に、ミニの直列4気筒エンジンをミッドへ横置きにマウントしたスポーツカーを個人的なプロジェクトで開発していた。それがミウラのルーツとして最も古い部分なのではないだろうか?

このエンジンを横置きにマウントするアイデアは、ホイールベースをより短くするという問題を解決することができた。同時にV型12気筒という大きなエンジンを横置きすることで、重量物が一つの部分に偏りヨー慣性モーメントが増大。結果としてリアがブレイクしやすい特性を持ってしまい、後に発売される高性能モデルのミウラ SVに至るまで、その特性を改善するためのサスペンションの改良が余儀なくされる。その改良を、実走を通して行っていたのがテストドライバーのボブ・ウォレスとなる。

そして本題のイオタの話に入ろう。ここでは諸説あるので断言することを避ける表現もあるが、一緒に考察することを楽しんでいただければと思う。

1969年の濃霧の日。ボブ・ウォレスがミウラを試乗していたという。道路の舗装工事に気づかずに荒れた路面でコントロールを失い、ミキサー車の下に突っ込んでしまう。数ヶ月経った後、ボブ・ウォレスがパオロ・スタンツァーニにミウラベースのレースカー製作の話を持ちかけ、このプロジェクトが始動したようだ。

まずここで、イオタは事故にあったミウラをベースに製作されたという説と、オリジナルのシャシーから作られたという説がある。ランボルギーニ内部の人間からのオリジナルで製作したとの証言もあるが、どちらが事実なのかは定かではない。どちらかが正しいのだろうが、どちらも正しいということもあるだろう。ちなみに、イオタはボックスフレームも特別に作られたもので、殆どがミウラとは異なるシャシーだったようだ。

そしてイオタの製作にとりかかった経緯だが、当時ランボルギーニ内で尖った高性能車を作りたくても、どうしてもGTカー寄りのクルマを作らざるを得なかったエンジニアや、テストドライバーの悶々とした感情の鬱憤晴らしという話が最も現実味がある。前述のように、当時フェルッチオはモータースポーツに対して好意的ではなかった(資金的なものか?)ようで、ボブ・ウォレスはミウラの先行開発としてイオタ開発の許可を受ける。しかし就業時間外での活動や、限定的な予算という制約のなかでイオタを製作することとなる。

名前の由来でもある、FIAの国際競技コードJ条というレギュレーションに適合するように作られたイオタは、当初はプライベート ミウラと呼ばれていたとのこと。ボブ・ウォレスはイオタを1000㎏以下に抑えたいとエンジニアに要求し、約950㎏という車重を実現したという。890㎏という説が定説化しているが、この950㎏という話は関係者から得た情報だという。かつてはシャシーナンバー5084が有力説だったが、現在では4683が本当のイオタのシャシーナンバーだったという説が濃厚だ。そしてこの5084というシャシーナンバーが与えられたのは、ランボルギーニが顧客のオーダーによりミウラをイオタ風にカスタマイズした、いわゆる”SVJ”と呼ばれるイオタレプリカという説があり、これは次回のイオタレプリカを紹介する記事で取り上げようと思う。

イオタは軽量化のためにヘッドライトが簡略化されてプレキシガラスに覆われたものとなり、サイドウィンドウも同素材に変更。さらに各部がアルミニウム製に置き換えられた。リアトレッドは太いタイヤを収めるために広げられ、フロントにはチンスポイラーを装備、前後フェンダー部にはエアアウトレットが設けられる。ミウラの弱点に大きく関係するサスペンションは新設計のものとなり、前後の重量配分を適正化するためなのか、燃料タンクはサイドシル内に移設される。これはフォード GT40と共通する部分というのが興味深い点だ。

エンジンは吸排気系やカムシャフトのチューニングがされてパワーアップがなされる。オイルの潤滑方法なのだが、標準のミウラはミニと同じくトランスミッションとエンジンのオイルを共通とするものとなっているところを、イオタでは別系統として、ドライサンプを採用している。4気筒という小さなエンジンでは問題ないのだろうが、V12の高性能エンジンでエンジンオイルとトランスミッションオイルを共通とするのは、些か無理があったのだろう。ミウラ SVの途中からドライサンプではないものの、エンジンとトランスミッションが別系統となっている。

4万km以上もの走行にわたり熱心にテストが繰り返されたようだが、その中でランボルギーニの顧客などからは、それを買い取りたいという申し出が多くあったそうだ。フェルッチオを販売用ではないと断っていたようだが、政治的な背景もあり、資金難に陥ったランボルギーニは、イオタを売りに出した。そして1970年10月にジェリーノジェリーニが経営するランボルギーニの代理店を介してヴァルターロンキの手に渡る。しかしイオタが扱いづらいといった要因でジェリーノジェリーニとウバルドスガルツィを介し1971年4月に代理店のランボルギーニ ブレーシア インタカーへ売却。インタカーの顧客がすでにこのイオタを購入する予定であったが、インタカーの経営者が近くの完成したばかりの封鎖された高速道路でイオタを試走。240㎞/hに達したところで事故に遭ってイオタは大破、炎上してしまう。1972年の8月にイオタがランボルギーニの本社のある、サンタアガタ・ボロネーゼで納車されたというのが過去の定説だが、ここでは時系列がはっきりしている現在の新たな見解を取りあげた。

このリアルイオタが存在していたのはたった数年にもかかわらず、その存在は伝説となり、語り草となっているのは周知の事実だ。当時から大きな注目を集めていたという話もあり、生まれながらにスター性を持っていたクルマなのだろう。このイオタに魅了された人は数知れず。シャシーナンバー3033のミウラ P400をベースに長い歳月とお金をかけ、本物の写真や資料などを参考に、リアルイオタと見間違えるほどのレプリカを製作した人もいる。その個体は、完成度の高さから「クローンイオタ」と呼ばれているほどだ。

そして今もなお、この謎を追い続ける人もいる。今なお謎が多いこのイオタだが、21世紀においても新説が出てくるのだから面白い。このあたりも不決め手、次回はランボルギーニが制作したミウラベースのイオタレプリカの謎を紹介していこうと思う。

[ライター/中野ヒロシ]

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